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連載70:少し悲しい話
さて、このあいだ友だちと話してたら、その子は女の子で普通にオリーブなんかめくってたりするんですが、 最近のこの連載ってのは、普段の、どーでもよくしゃべったりしてる僕に、一番近いらしいですよ。 確かに、言ってる意味はちょっとわかる。音楽をやってるってのは、もっと野生に帰ってる気もするし。 普通に、社会的に、友だちと楽しく喋ってる自分てのは、まあこんな感じかも。
それで、ここ1年くらいの、僕が自分で気に入ってる連載の書き方というのは、なんというか、時間制なんです。 だいたい一時間半、ひと食事するあいだ、と決めてしまって、今も食事しながら書いてるのですが、 家ではなく外の店で、元々は何もアイディアを考えず、その時出るがままを、一時間半だけ書くのです。 外だから早く終わらないとカッコワルイ。僕の音楽とは、全然表現としては違うモンですね。

だから、こういう文章を書くのは、これからもやるだろうし、てことは、またどこかでお目にかかることもあるでしょう。


連載71:鏡の前
現実のすべての瞬間は美しい。カメラを向けられている間だけ美しくない、なんてことはないのです。
それにしても…まじでだっさい写真!等々思うのは、誰にでもあること。写真が撮るのは、現実のほんの僅かな部分なんですね…。

という訳で、美しくない瞬間はないが、美しくない写真は死ぬ程ある、って感じですね。たぶん。
でもやっぱり現実は美しい。 相当大きな目で見れば。
大きな目で見れるかどうかは、また別の問題ってことで。


連載72:意外な結論!
秋の太陽がビシビシ照らす、レストランの外の席でこれを書いています。ちょいと酒など飲みながら。 と言うか、思えばこの連載はほとんど酔っぱらって書いていましたね。しらふで文章なんか書けません。 少なくとも、人が読んで楽しい文章なんかは。

さて、今、太陽がビシビシ照らす、と書いた後、テラスで、と書こうかと思ったのですが、困りますよね、 こういう偶然のダジャレ。たまに気が付かないで言ってしまって、しまった!そんなつもりじゃ! と取り乱してしまうことありませんか。女の人なんかだと、顔赤くなっちゃったりしますが、それはそれで結構いいです。

でもダジャレって、意図して言ったか言わないかはともかく、空気がプシューッと抜けるというか、 その場の雰囲気は変わりますね、良くも悪くも。

でも夜遊びをして、明け方になって、かなりどうでもよくなってきて、 ダジャレもしくはくだらないジョークが口から垂れてくるというか、 「これがほんとの」とかそういうレベルが一番面白くなってきちゃう時とかありませんか。垂れる、というか、 垂らす、というか、素っ裸で温泉にとびこむみたいな、変な解放感というか、連帯感というか、そんなの出てきます。

けどやっぱり一番面白いのは、真っ昼間に「出ちゃったダジャレ」ですね。

あと僕が好きなのは、よく知らない同士が、パーティーやなにかで一座をつくってしまった時に、 堅い雰囲気を壊そうと、無理を承知で繰り出す面白トークやダジャレで、僕は、一座で一番最初に 「犠牲ジョーク」に飛び込む人は、基本的に好きです。それを聞いて、つまんねえなあー、 とか言って話を盛り上げるのは誰にもできることで、最初に言うのは並み大抵のことじゃありませんよ。 ナマコを最初に食った人とか、奴隷解放宣言とか、そういうこと思ってしまいます。キング牧師とか、 ガンジーとか。偉大な所では。

不毛の世界に麦まく人。

さて、話を冒頭に戻して、太陽がビシビシ照らす、で何を書こうと思ったかというと、僕は太陽ってやっぱり、 破壊するもの、というか、最高の毒だと思ってんです。めちゃくちゃ熱いし。放射線とか出てるし。 もし地球に大気がなかったり、地球がもう少し太陽に近かったりしたら、太陽は生命を育むものではなくて、 完璧に焼き尽すもので。

けども、距離や大気によって薄められて、ちょうど生命を恵むもの、創造するものになってたりする。

で、例えば香水とかも、元々はジャコウとか、超キツイ、気絶するようなひどい匂いのものを、なんとなく薄めて、 甘いような、いい匂いになったりする訳で。

しかしその源は、破壊的な異常な匂い。毒々しいもの。

あとお酒とか。100%のアルコールってのは、やっぱりただの毒で。エネルギー過剰で。15%くらいで、 酔わせるワインだったりして。

それで僕らは、音楽を聴いたり、小説を読んだりするのですが、それが本当に酔わせるものの場合、その源では、 作者はものすごい破壊的なエネルギーというか、毒のようなものを抱え込んでしまっていると思うのですよ。 それが何となく薄まって届いてくるから、甘い香りがするというか。

しかしやっぱり、それはオオモトの、作者のところでは、本人も焼き尽くすくらいの、ものなんじゃないんでしょーかね。

よくいるじゃん、発狂しちゃう人とか。いきなり自殺しちゃう人とか。

近くにいる人はたまらんだろう。焼かれちゃいます。太陽の近くにいるのと同じ。

秋深く、読書をしたり、音楽を聴いたりすると、そんなこと思ったりします。

でもやっぱり、太陽によって人は生きているのです。ドーブツとかも。草木も生えるし、風も吹く。雨も降る。

甘くて、破壊的なエネルギーを持つ、毒に近いもの。チョコレートとか食べ過ぎると、気持ち悪くなるしな。 ご飯食べ過ぎてもお腹いっぱいになるだけだけど。あと、食パンとかいくら食っても平気だが、キャビアとか大量に食うと死ぬかも。

なんて具合に、意外に話がたかまってきてたりすると、突然誰か、あまりにも意外な結論を、結構自信ありげに言い放ったりします。

「やっぱり自分、てことだよな。」とか。

この場合も、アレッ?とみんな思うのですが、確かに悪いことは言ってないし、そうそう、とか言いつつも、 プシューッと空気が抜けていきます。

意外な結論。まとめすぎ。思わず出ちゃったダジャレにそっくりな虚脱感。どーするよ。

しかしどちらを言う人にも、悪い人はいないってことで、僕は結構好きです。

黙っているより、好きですよ。


連載73:キンキラキン
花っぽいことってのは、これに比べると結構貧弱なんですね、たぶん。散歩とか。でもいいじゃないですか、 散歩とかって。あとは街中でスケボーやってたり、野山を自転車でのぼりおりしてる人とかって、目の前の、 なんでもない小さな起伏とか、手すりとかが、自分にとって特別な、喜びを与えてくれるものになってる訳で、 この精神性はかなりいいですね。散歩とかでも、路地の奥で猫がこっち見てて、パッと走り去るとか、 そんなことがめちゃくちゃ印象的だったり。魚屋さんが魚さばいてるのが妙に泣けたり。
そういうことは本当になんでもない、すぎてゆく一瞬のことなのに。

栄華や不老不死と正反対の、はかなくて、すごく個別的で、人には上手く説明できないようなこと。


連載74:すすき野原に風が吹く
富士山の方へ旅行をしたのですが、富士山の方には湖がたくさんあって、 意外に風が強くて湖面には波が立って、 小さな三角形の波がキラキラとたくさん輝いています。

それを見る前に、富士の裾野のすすきの野原みたいな事を、 通りがかって、見たのですが、それにも似ていて、規則はなくて、 やたら細かい波が揺れていて、太陽の光に反射していて、平らで、 変なまだらみたいなのが出ていて、 虎目の猫(柄が。ガラって言うのか知りませんが。)のお腹みたいに、 縞もようが現れたり消えたり。すすき野原ってのは、 風に吹かれた湖面に似ているなと。

一面の、黄金色のすすき野が風に吹かれている様子というのは、 虎目の猫のお腹にも似ていますが、台風の時に道路と見ていると、 ザアザアと起こる様子にも似ています。まだらが現れては消えて、 やっぱ風だからな、とか思いますけど。

さて、目を湖面の小さな三角形から上げると、 超でかい三角形が!!富士山もまっ黒く三角形で、 うーん、富士山も地表の波なのかもなあ、と思ったりします。 他のアルプスの山々も、土の波。ただし超でかい。 あと消えるのが、数万年単位というか、 湖面の波のようにチャプチャプとは消えません。

で、これが何か哲学的な思索に導くかというと、話は全然違う方に行って、 湖面を見てて思うのが、まあ湖とか、池とか、 地球上には水がタプタプと波打っている所が沢山有る訳ですが、 考える訳です、もし、水がぜんぶすすきだったら。 湖面とかは、想像しやすいと思うけど。一面すすき野原で、 そこに、舟みたいなものが浮いている。 なにか、上手くすすき野原に浮かべるような器具が。みんな漕いだりしてる。

釣りとかも、すすき野にひそんでいる猫とか釣るのね。 ねずみ型のルアーとかで。釣れた、とか言って。ニャー、とか言って。

そんで、網みたいなものを足元のすすきの中に垂らして、 ニャーとか言ってる猫を、ヨシヨシとか言って放すのですが、 網の中には、猫が五匹くらい、ゴロゴロ言ってる訳です。

釣り大会なんかでは、やはり大物を釣った方が勝ちですから、 全長を測ります。猫をよく伸ばして、手の先から尻尾の先までが長いのが勝ち。

大会の優勝者なんかは、自分の釣った獲物を手に、 会心の笑みで写真に写っていたりしますが、その手には、 両手をしばられた、かなり全長の長い猫が、ぐったりと握られている訳です。

でも可哀そうだから、釣ったら放す。ニャーとか言って、走っていく。

しかし、これムチャクチャな話で 読んでる皆さんがどこまでついてこれるか分かりませんが、 地球上の水面が全部すすき野だったら、という仮定ですから、 海とかもすすき野原ですよ。当然。 網を曵いて馬とか獲ってる。あとすすきが異常に長いですね。 海では。深いとこで10kmくらいありますか。

ありますか、じゃないっての。

それにしても、異常に似てますよ。 風が吹いている時のすすき野の表面や、湖の湖面や、 地面を見て、雑草なんか生えていますが、それらが揺れてる姿って。

僕が好きな物書きの人で、土石流を見に行くのが好きで、 どこそこで土石流が起こった、となると見に行かずにはいられない、 という人がいるのですが、そういう気分て結構わかります。 要するに、地表が波を打ち、呼吸をしている、 その現場を美しいと思って見にいく。

しかし実際土石流では、それによって人が死んだり、 動物が死んだりしているのですが、それを美しい、 と言ってはいけない、というのは、 全く人間が作り上げた約束事にすぎなくて、 地表が、ごくたまに波を打つのが美しい、と思って、 災害現場を美として見に行くのって、人間の約束事、 人が死んだりした時にはしゃいじゃいけない、 というのを別にすれば、結構まっとうなことなんですよね。

人間の意識って、人間自身が勝手につくった枠組み みたいなものに結構とらわれていて、 まっすぐに物を見るのって、難しい。難しくって困りますよ、ほんと。

けどある時は、野性の目で、社会的な約束事とか離れて、 星空から見るような目で物を見てみると?

そこで、ニャーとか言って長く伸ばされている猫を想像する 僕ってのも、なんなんですが……。「50cm」とか言って。


連載75:無色の混沌
僕の友人で、二人姉妹なのに、生まれてから一度も親に、 「お姉ちゃん」と言われたことがないという人がいる。 二人とも「何々ちゃん」と名前を呼ばれるだけで、そうなると妹の方も 「お姉ちゃん」とは呼ばなくて、名前で呼び合うことになる。 そう言えば彼女にはいわゆる「お姉さんらしい感じ」はない。 「お姉さん」「お兄ちゃん」と呼ばれ続けることは、その人の性格に影響するらしい。 「兄」とか「弟」とか言うのは、人間が持って生まれた資質ではなくて、 社会的に規制された結果、というか周囲がそれを強要しているのである。

人は分ける。上と下。右と左。陰と陽。善と悪。とにかく分けたがる。自分自身さえも分けてしまう。 不良か優等生か。運動神経がいいか悪いか。人間嫌いか社交家か。完全にどちらかである人なんて絶対いなくて、 僕らは混然とした存在なのに、混然を受け入れるってのは難しいから、めんどくさがりの脳は、 あるいは機能は、それ自体をあるがままに受け入れないで、白黒つけてゆく。そうすると物事は、 すごく簡単になるから。ボケとツッコミ。

懐かしいアズテック・カメラの、「ナイフ」という曲は、この世にはナイフがあって、 物事を二つに分断しつづけている、ということを歌っている。

何もない空間である世界を、ナイフで切った、上と呼ばれる部分にあるとされていること。 寛容、優雅さ、などなど。 僕は二人兄弟の弟だが、兄、正しくは「淳ちゃん」を、 僕は「お兄ちゃん」と呼んだりもしたので、 その度に彼は、上の部分に属されていることであらねばならないと思ったかも。 僕は「淳ちゃん」をそう呼びながら、下の部分に属すことになっている、快活さ、自由さ、 などなどを意識したのかも。えー、全く無意識に。

二人でいれば、そのまったくくだらないナイフは、 混然として美しい世界をどんどん切ってよこす。 そして切り取られた世界は君の皿の上で、干からびて死んでしまって、 勘定書きの上に、その名前だけが残るのだ。 「優雅さ―一つ。」そんな風に記されていいものは、この世の中には一つもない。 カレーが、茹でたニンジンと、いためたタマネギと、御飯と、 といった具合に出されるのと同じだ。それには何の意味もない。

二人といえば、フリッパーズ・ギターの話もしよう。 これも今のカレーの例えと同じこと。ナイフで分けてもなんの意味もない。 二人で何となく決まっていたのは、リードボーカルは小山田が歌う。 歌詞とかタイトルは僕が作る。そのくらいのことで、あとは混然としていた。 二人の共同の名前でクレジットしたが、 作曲では、僕が一人でしたのは、 「フレンズ・アゲイン」「恋とマシンガン」「カメラ!カメラ!カメラ!」「全ての言葉はさよなら」。 小山田一人なのが、「ヘアカット100」「偶然のナイフ・エッジ・カレス」「ビッグ・バッド・ビンゴ」 「午前3時のオプ」「ラテンでレッツ・ラブ」あと、「ラブ・トレイン」「パパ・ボーイ」 ってのもあった。 他の曲は全部二人で何日も一緒に、どっちかの家で、 夜中にコンビニ行ったりしながら、ラララーとか歌って作った。 青臭い話とかしながら…。

で、二人でいれば混然としていられるのだが、人目にさらされるとそうは行かない。 二人っていうくらい、微妙な関係はない。 それは他の誰かが、「あいつこう言ってたよ。」 というだけで、余裕でグラつく関係じゃないかと思う。 そして二人でいる人たちにすかさず貼られるレッテル―「仲が悪い」。 オーケー。世の中のすべての二人組を代表して言っておこう。 「お前らに言われる筋合いはない。」以上。

二人、というのは微妙である。 男同士の場合(女同士であったことがないから判らない)、あまり話が通じてしまうというのも考えもので、 微妙な気恥ずかしさみたいなものが発生したりする。 本当に親しい友だちとは、大勢でいる時には意外に話さなかったりして、 他人を反射して話をしたりして、二人でいると突然変に盛り上がったりして、 そういうことは結構おもしろい。そういう友だちが何人かいます。

男と女、となると、みんな御存知の微妙さで、ただの友達の女の子と、 なぜか一緒のホテルの部屋に泊まることになってしまった場合(状況はいくらでも考え得る)。 恋人同士に、第三者がポンと言った一言で、恋愛がガラガラと崩壊するさま(この間ポンと言ってしまった)。

AとB 二人がいる所に、CがAに、何かBの知らない重要なことを言う。 Aは否定するが、Bの中に生じた疑念は消えない。 Aが肯定しても、Bは「何で言わないんだよ」と思ったりする。 それが良かったり悪かったり。 しかも二人という関係は、どちらかが回路を閉じれば、それで終りである。 恋愛や結婚が、三人でするものならば、また違うだろうに、 三人一緒にベッドに入るのは、いまのところごく限られた人々だけである。

認識ってのは、普通あまりにも二者択一で、ほんとくだらない。 それは磁石の針のように、こらえきれずにどちらかの極を向いてしまう。 世界が半分ずつ見えなくなっていくだけなのに…。 マスメディアってのは、人間の脳の拡大図みたいなものだから、 その中にいると、人間の癖が良く判る。

けどそういうこと全ては、どうでもいいことだ。 「ラブリー」とか、「いちょう並木のセレナーデ」といった歌を歌うことにくらべれば。 これは、僕自身の話。

さて、それでは今度の「ある光」。「ある光」とは、「心の中にある光」。

光は全ての色を含んで未分化。無色の混沌。 それはそれのみとして、分けられずにあるもの。 切り分けられていない、混然とした、美しく大きな力。それが人の心の中にある。

僕らの体はかつて星の一部だったと言う。 それが結合して、体が在って、その心が通じ合ったりするのは、 あまりにも驚異的で、奇跡で、美しい。

そんな手紙をさっき書いたんだけど、そんなことを時には本当に思ったりします、僕は。 (映画見て、その気になっていた。)


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